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盛会御礼

 投稿者:今井 俊昭  投稿日:2017年11月19日(日)22時05分27秒
返信・引用 編集済
  皆様、
11/18(土)はお疲れさまでした。おかげさまで今回も盛会となりました。
厚く御礼申し上げます。

次回以降の日程です。
2018/5/26(土) お題:14歳からの哲学から17「仕事と生活」
2018/10/27(土)お題:未定

今後ともよろしくお願いいたします。
 
 

友情と愛情

 投稿者:なべちゃん  投稿日:2017年11月17日(金)21時41分48秒
返信・引用
   池田さんは、つまらない奴と付き合うくらいなら孤独であれ、と言っている。
 まずは、自分に向き合い、自分を愛し、よく考え自信を持って生きることだと。そうすれば、人に左右されることもなく自分の人生を進めるし、その上で本当の友達といえる、本当の友情があればいいのだろう。つまらない友達と過ごす時間が人生においていかに空虚で無駄な時間だとも言っている。
 友達関係がつまらない=自分にとって嫌なこと=自分とって損なこと。だとしたら、損得でのつながりで友達は不要としてしまう。また、ここに出てくる友情とは、本当の友情=親友にだけともとれる。友情は限定的なものなのだろうか…「つまらないから付き合わない」というのも、この人と付き合っても時間の無駄というのも条件ではないか?
 自分にとって嫌なことをするような友達は、確かに友達ではないのかもしれない。一方で、人との付き合いを制限していると自分のフィルターにかからない人とは中々出会えない。相手の事もよくわからないし、自分がどんな友達と合うのかも実はよくわからない。
 「愛というものは、相手に対価を求めないもの。」無私の愛、無償の愛、無条件であるならば、友情もまた相手に何かを求めないのではないか。「簡単に裏切られたと思うような友情は本当の友情では無い」というのは、自分が信頼し相手を信用したのに、相手の考えや行動が、自分と違うことにより、心を踏みにじられたと思うからではないのか。愛が相手を認めること、対価を求めないものであるならば、意見の相違が起きてしまったんだと思う以外にないのに。お互いに意見を言い合い、たとえ自分と違う考えでもそれはそれで認めるのが友情だと思う。
また、親友で無かったら友情が無いわけでもないだろう。ある一時期であったとしても、色んな話をして互いの心情を共有し信頼しあえたならば、そこにはやはり友情が芽生えたといってもいいのではないか。
 「人間が人間を無条件で愛するというのはもの凄く難しい。」という。好きな人だけを愛してはいけない。嫌いな人も愛すべきだといい、そういう相手を嫌いだ、イヤだと思う気持ちは自分にとってもイヤなこと。だから、自分で嫌なことは人にしない。
他人を丸ごと認めて受け入れるのであれば、嫌な人とは自分とは合わない面があると認めた上で相手との距離を置き、様々な人と付き合いながら、条件を付けずに自分が親友と呼べるような友達を探していくことになるのだろう。
 他人も自分であるならば、考えることも大事だけれど、人と話すこと(相手を知ること)も自分を知ることになる。
 

友情と愛情

 投稿者:今井 俊昭  投稿日:2017年11月16日(木)22時57分21秒
返信・引用 編集済
  友情と愛情

 幼稚園などの卒業式でよく歌われる「一年生になったら」という歌がある。
♪ 一年生になったら ともだち100人 できるかな・・・ ♪
 初めてこの歌を聴いた時、友達百人なんて要らないと思った記憶がある。そんなに付き
合いきれない、友人なんて2、3人で充分だ、オーバーフローを起こしてしまう。でも、
今になって考えてみると、私にとって友人というのは心を開いて何でも話せる親友のこと
だ。お互いの心に深い結びつき、信頼関係がある。さらにいえば損得抜き、特定の目的が
ない友人との関係、これを友情というのだろう。

 では、飲み友達、遊び友達といった友達は何なのだろう。どちらかといえば仲間の範疇
に入るのかもしれない。仲間の中で気心の知れた一部の人達は友達なのだろうか。子供の
ころから現在まで、いろいろな仲間を作り友達もいた。でも歳を取るにしたがって交友範
囲が段々限定されて、新しい仲間や友達というのはなかなかできない。せいぜい趣味の仲
間とか職場の飲み仲間ぐらいだ。
 私にとって本当の友人はせいぜい2,3人。それ以外に、小学校時代の友人達や以前の
職場の仲間達とは、今でも交流がある。意識して付き合うようにしている。さもないとど
んどん交際範囲が狭くなってしまう。社会的に孤立しかねないからだ。これは精神的な孤
独とは違うと思う。

 私は一人っ子のせいか、一人でいることが苦にならない。むしろ楽しくすらある。まあ
思索の日々を送り精神的な充実感を得る境地には程遠いが・・・。時には自分の趣味に没
頭したり、時には読書したりするぐらいである。
 池田晶子さんは「自分を愛し、孤独を味わえる者同士が、幸運にも出会うことができた
なら、そこに生まれる友情こそが素晴らしい」という。残念ながら、そのような人とは未
だに出会っていない。どのようにしてその人が孤独かどうかわかるのだろう。多分、自分
の感性で判断するのだろう。今いる親友達が孤独を味わった人達かどうかよくわからない
けれども、もしかしたらそうなのかもしれない。
 現実にあるのかなと思う。もしかしたら山水画に描かれた人里離れた理想郷の世界なの
かもしれない。俗世間を離れ、晴耕雨読の生活を送る。たまに友人が訪ねてきて、酒食を
ともにし、歌を吟じ、話をする。いいですね。私なら人里離れた山奥に家を建てて屋上に
ドームを作り天体望遠鏡を設置する。昼間はクラシック音楽を聴き、夜は天体観測に明け
暮れる。時々、気心の知れた仲間が訪ねてくる。こんな感じですかね。

 正直言って人付き合いがうまくない、できれば一人でいたい。このような人間にとって、
今までの人との付き合い方、友人とは何か等、いろいろと考えさせられた文章だった。
 

友情と愛情

 投稿者:大野  投稿日:2017年11月16日(木)15時27分35秒
返信・引用
  友情と愛情  (東西南北の会 2017年11月18日)

友だち (種類)
1.つまらない友だち: 孤独に耐えられないから持つ (質より量)
2.面白い遊び友だち:
3.本当の友だち: 大事なことを語り合える、信頼できる友だち = 友情 = 友だちへの愛情  = 無条件の愛情 = 無私の愛情 = 損得抜きで丸ごと相手を受け入れる

例)ペット;双方無条件の愛情
例)親子 ;親は子を愛しているのか、自分を愛しているのか微妙

0.孤独: 自分を愛する = 他人に自分を愛させる必要はない、 孤独に考える = 自分との対話
孤独を味わう者同士の出会いと友情は素晴らしい

4.嫌いな人、イヤな人、見知らぬ人
自分を本当に愛する人は 嫌いな人がいると自分が愛せなくなり苦しいので、丸ごと認めて受け入れる。自分とは世界、自分を愛することが世界を愛することになる。

話題のT氏のことが頭に浮かんできました。この人物は名実共に自分=世界、かも。
$ 嫌う女性が多いが、彼は女性が大好き
$ 損得では相手を一刀両一刀両断したがるが、個人に対しては愛想がよい
 

ふと、こんな文に出会いました。

 投稿者:佐藤 信  投稿日:2017年11月16日(木)07時45分50秒
返信・引用
  帰宅したら分厚い手紙が来ていました。差出人はいま100歳で私が小学校5年、6年の時の担任の先生からでした。手紙にはこの4月に6歳下の奥様が他界されたこと、そして葬儀の時参列者にしたご挨拶の手書き原稿がはいっていました。(娘さんが代読されたとか)昔と変わらぬ達筆でした。
奥様とのなり染めから、ご自身の人生の中で奥様となされた数々の思いでが細かに述べられており、如何に奥様に感謝しているか心温まるものでした。早速先生に電話を入れました。とても元気なお声が飛び込んできました。100歳とは思えない昔教室で聞いた先生の声でした。先生は奥様を亡くされ一人になって、これからやりたいことを約30分電話で話されました。そして最後に「おまえは幾つになった?」と聞かれ「81歳です」と言ったら「俺の年までまで20年ある、やること沢山あるぞ!」と言われてしまいました。小学校卒業してから60数年になってまでも先生から教えられた瞬間でした。
又新しい力を頂いた今日でした。先生ありがとう。
 

友情と愛情

 投稿者:新井せいめい  投稿日:2017年11月16日(木)01時49分52秒
返信・引用
  友情とは愛情のひとつのありようで、愛情とは相手を丸ごと認めて受け入れてあげる
という心のありようだ。

相手とは、第一に自分自身であり、次いで他者となる。他者には、友達、好きな人、
子供、ペット、そして嫌いな人も含まれる。

それら全てに対して愛してくれるなら愛してあげるなどの計算は一切なく、認め、
受け入れるのが本当の愛情。

人間が人間を無条件で愛するというのは、ものすごく難しい。ある意味では、
人はこれを学ぶためにこの世で生きているとも言える。



同じような考え方として、マーフィー理論というのがある。

無条件ですべて受け入れるなんて、普通の人間にはできないと思う。哲学的思考では、
そういう考えに辿りつくというだけで、現実社会でそこに達する人は少ないだろう。

そこで、もしもそれが出来たらどんな気分のだろうか?と想像してみた。
前回の「他人とは何か」で出てきた「大きいほうの自分」の心境に近づくのかも知れない。

最近、これを実践してみるのだが、うまくその境地に辿り着けると、自分が一回りも
二回りも大きくなったようで、心の充足を実感する事はある。

池田さん的哲学思考を傍らに起きつつ日常を送るくらいが心地よい、と最近は感じている。
 

友情と愛情

 投稿者:もりかん  投稿日:2017年11月15日(水)20時46分22秒
返信・引用
  孤独でつらい、寂しいと感じる時がある。自分の存在意義や価値を自分で確認したい欲求もあるだろう。だから、友達が多くいた方が良い。という考えが世間一般にある。

「友達と愛情」のテーマは、それに疑問を投げかけている。

「友達」の前に自分を愛しているかが重要。ということだ。自分を愛していなければ、友達を含めた他人に依存することとなり、結果、振り回されることになる。幸せにもなれない。

自分を愛することは、「孤独力」があるということ。

「孤独力」とは、自分の価値観を振り返り、それをベースに経験を振り返って分析し、自分の思考を見直し、行動する。

社会のなかで人とかかわりあいながらも、常に自分の意思を主軸に置いて、生きるという姿勢らしい。自分にとっては「健康」の主軸だろう。

誰にも依存せず、すべてを自分で決められる(決める)という意志がある。すべてを自分で解決できる(する)という覚悟がある。

外的な要求や圧力に屈することなく、他人のネガティブな影響を受けず、ポジティブな影響だけを自らの判断で選んで受け止めることができる。

「孤独力」は、とても素晴らしく、憧れさえ覚える。

はっとしたことは、自分自身が本当に自分を愛しているならば、他人に自分を愛させようとすることはないはず。ということ。

ただ、少し経った後、疑問を抱いたことは、自分で自分を愛しているから、他人に愛を求めることは不要ということだ。

これは、答えがわからない。自分が自分を愛していれば、他人に愛を求めなくなるのだろうか。別な気がする。

嫌いな人も丸ごと認めて受容することが自分のためとあるが、それはわかっちゃいるけど、生理的にムリなこともあるだろう。

自分を愛するということが、そのまま、世界を愛するということ。だから、世のため人のために何かをしたいと願うならば、自分を愛することが第一歩ということ。

これには強く共感する。
 

友情と愛情

 投稿者:やまたけ  投稿日:2017年11月12日(日)17時25分56秒
返信・引用
  ・友情について考えたのは久しぶりで、そもそも友情とは何ぞやという
 所から考え直しているうちに時間だけが過ぎていき全く纏まらない。

・纏まらない大きな原因はそもそもここ10年以上新しい友人が増えることがなく、
 友情について改めて感じたり裏切られたりする体験がないからであろうか。

・それは取りも直さず交友関係が広がっておらず、寧ろ狭くなっていることに
 起因しており、年々腰が重くなってきている。

・大人になると不特定多数の人相手に軽々しく政治信条や信じている宗教を
 訊いたりまた披露することは躊躇せざるを得ず、おのずと相手の人生観や
 価値観を見極めるのが困難になってきてしまう。

・また自身では気づかない場合も多いが、自身そのものの考え方が変わって
 来てしまい、その時々によって信じる物や考えが違ってしまう。

・自身の中に確固たる哲学が確立されていればブレもなく、相手が如何様であろうと、
 惑わされることはないのだが、如何せん自身がぐらついてしまい難しい。

・不惑の年を過ごしている身であるが、全く逆に四十を超えて惑うようになってしまった。
 

今井 俊昭

 投稿者:秋の例会  投稿日:2017年10月12日(木)10時01分51秒
返信・引用
  皆様、
秋の例会は下記の通りです。

日時 : 11/18(土) 13:30-16:00
場所 : 東京経済大学1号館2階のオープンスペース
議題 : 「14歳からの哲学」から15「友情と愛情」

小論文をお書き下さい

いつものように16時からピーナッツハウスで懇親会を予定しています。

よろしくお願い致します。
 

他人とは

 投稿者:なべちゃん  投稿日:2017年 5月26日(金)02時38分23秒
返信・引用
  他人とは

自分とは何ぞや・・・と大分苦しんで、「存在としての自分」が何とか理解できた。
そうしたら今度は他人とは何ぞやと・・・「自分以外の人に決まっている。」と、中学生の自分は答えるだろう。しかし、もう何年も読んで考えるようになったから「自分を通してみる世界に存在する人」くらいにはなったが、池田さんはこの問いかけを14歳に分かりやすく語るのだからすごい。
でも「大きい方の自分」は、世界も自分で、他人も自分という。自分には見えているし、わかっているつもりでも、この世界が概念であることを理解するには時間がかかった。
すぐには理解できなくて、読みながら絵を描いてようやく腑に落ちた。
他人にはなれないし他人の痛みを知ることもできないというのは、小さい方の自分の考えであるという。
でも、他人が痛がっているのを見て痛そうだなと思う。悲しんでいるのを見て一緒に悲しくなる。そのとき人はどこかで、その人は自分だと知っている。これは大きい方の自分。本当に、今回のイギリスのテロ事件で泣いている人を見てこちらも思わず涙するのは、泣いている人が可哀相だから泣いているのではなく、「もし自分がその立場だったら・・・」と、思わず自分がその感情に入りこんでしまい悲しくて泣くのだ。

すべてである自分には内も外もない。自分が見ている世界は、すべてだから内側も外側もないというけれど。
でも、他人を理解することは難しい。これは自分の器の問題なのか、フィルターがゆがんでいるから正しく見えていないのか、何が正しいのかわかっていないからなのか、色々考えてしまう。池田さんに思想や感情や自分の語彙と歴史や背景をミックスして「正しい」ものを見つけなさいと言われそうだ。
 

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